雑記

人は考える。
自分は常に思考し続ける人間を理想像として掲げている。
考えるという行為は人間において本質的であり,最も重要である。
しかし実際はいつでも十分な思考を巡らすことができるわけではなく,思考を放棄することもある。これは悪である。
考え続けていると疲れてくる。考えること自体が嫌になってくる。
考えることは良いことだとしても,頭が狂ってしまうほど考え続けることは果たして良いことだろうか。
人間である以上思考は完全ではない。間違えることもある。
自分がどれだけ思考できるのか,その限界は知っておかねばならない。さらにそれを忘れてはならない。
しかし限界がどこにあるのか客観的に記述するのは難しい。長い経験が必要。
未来は予測できることもあるが,予測できないこともある。
自分がどれだけ未来を正確に予測できるか把握しておかねばならない。
自分に未来を予測する能力があると思い込んでしまったことがあった。
自分の予測が当たるとさらに能力を信頼するようになり,自分の予測が外れるとその経験が能力の精度を高めたと言って喜んだ。
実際は当然未来を正確に予測することはできない。能力を過信して油断し,思考を止めるなど言語道断である。
予測が外れる可能性も常に覚えておかねばならない。外れたときに焦りすぎないように。
また,予測が外れることを当てにするのも間違っている。予測は当たるとも外れるとも言えない。当たるときは当たるし外れるときは外れる,それだけである。
人は過去をもとに未来を予測している。では過去のことはどれだけ覚えているか。
人は過去を記憶する。しかしその記憶は本当に正確か。
記憶はよく勝手に書き換えられる。自分の記憶力を過信してはならない。
人は様々な手段によって知識を増やす。しかし知識が増える瞬間を全て記憶することはできない。
今の自分が知識として持っていることを,自分がいつ学んだのか,思い出せないことが多い。
故に過去の自分を見返したときに,現在の自分の知識を当時の自分の知識と混同することも多い。
知識が蓄積されていくとき,知識の変化を記録することは難しい。
記録しようと努力するのではなく,記録できないと割り切るべきである。
人は忘れる。
しかし現在の出来事を未来の自分がどれだけ覚えているか考えるのは難しい。
ずっと覚えていたいと思っていたのになぜかいつのまにか忘れていたり,どうせ忘れているだろうと思っていたらなぜかちゃんと記憶に残り続けていたりする。思い出せるときと思い出せないときがあったりもする。
注意,逆もまた然り。覚えていたいと思っていたことをずっと覚えていられることもあるし,忘れたいと思っていることを案外忘れられることもある。
また「記憶,覚えたこと」に対して「知識,知っていること」は消えないと思いがちだが,実際は時間が経てば知識そのものが失われることもある。
特に自分の思考によって生まれた知識の変化には気づきにくい。
人は常に自分が正しいと思っている。
自分の間違いを認めるときでさえ,その瞬間の自分(つまり間違いを認める自分)は正しいと思っている。
これは当然であり,それが正しいという言葉の本質である。
過去の自分が正しいと思っていたことが正しいかどうか疑うことは重要である。
さらに現在の自分が正しいと思っていることを未来の自分が正しくないと思う可能性も考えておく方が良いだろう。
人は精神状態を一定に保つことができない。
上述のような思考を永遠に続けることはできない。
どれだけ思考を続けることができるのか正確に判断し,適度な休息をとる必要がある。
人は感情を持つ。
ここから先,感情の存在を事実と認めた上で話を進める。
感情について考えたり,感情を制御したりしようとすることで,それまでの感情が失われる[ことがある]。
感情は人間社会の中で刷り込まれることによって生まれる[のではないだろうか]。
そういった意味で,何もない状態から発生する真実の感情は欲以外に存在しない[と思っている]。
一度失った感情も,同じように刷り込むことによって取り戻すことができる[気がする]。
それらを偽物の感情として否定することは必ずしもできない[可能性がある]。