目の前に暖簾があったとき

目の前に暖簾があったとき、それを1万回押そうと試みる、私のような人間がいる。

暖簾を1回押す労力がどれほど軽いものであるかは皆が知っている。しかしそれが1万回になると誰も知らない。

私は、周りに誰もいないのを確認して、暖簾を押し始める。しかし1万回も続けることはできず、1000回押したところで疲れて諦めてしまう。しかしたとえ予定の1割であろうと、初めに思っていたよりは遥かに大変だったから、私はそれで十分とする。

私の労力が、例えば企業して1億円稼ぐことや勉強して司法試験に受かることと比べるとどれほどのものなのかなど誰も知らない。だから私は、自分の主観を存分に挟んでそれを評価することができる。

 

私は見えない努力をした。

 

しかし私は、外からの評価が無いと満たされない。そこで身近にいる人間を1人捕まえてきて、こっそり打ち明ける。「暖簾を1000回押した。これはお前の思うよりずっと大変なことだぞ」と。暖簾を押すために必要な仕事量に関するきちんとしたデータは与えず、なんとなくぼやかした言い方をする。

もちろんその人は暖簾を1000回はおろか3回も続けて押した経験が無い。その人が聞かされるのは、「暖簾を1000回押すことは、予想よりも大変なことだ」ということだけだ。

 

莫迦はそれを信じる。

 

かつて私は莫迦だった。そして今は、莫迦を捕まえる側にもなった。

私のような人間を、ある者は「哀れな世間知らず」と呼ぶかもしれないし、またある者は「こじらせた中二病」と呼ぶかもしれない。実際それで概ね正しいのだろう。しかしそういった声に対しては耳を塞ぐことができる。実際この世には十分に評価されない努力というものが存在するから、それを隠れ蓑にすることができる。

私は幸せなのだろうか。井の中を泳ぎ回るためだけに、私は生まれてきたのだろうか。本人が幸せだと思えば幸せなのだろうか。割り切ってしまえばよいのだろうか。もし世界中の人間がそうやって何もしなかったら、どうなってしまうのだろうか。

 

私は、なんとなくだが、この生き方が嫌いだと思った。